「死ぬ」ってどういうこと?

ひとりごと

最近、こんなブログを拝読しました。

『Amazonの僧侶派遣に対抗したければ、死を細分化すればいい』

この方はご自身でも書いておられるように、「おもいついた」のでしょう。
私はこういう考え方をされる方や、今噂のMれびさんに対して

「傲慢だ!」「命を何だと思っとる!」

みたいな喝!を入れるつもりはありません。
どこまで行ったって私は坊さんですから。毎日お参り行ったり法事や葬儀を勤めているのですから。
何を書いたって「葬式坊主の自己保身」とか書かれるのでしょう。

ただ、一つだけ書かせてください。

『今まで準備してきたことが間に合わなくなること』を「死」というのです。
最近よく「終活」って耳にしますよね。エンディングノートなんかでは、延命措置がいらないとか書き込みます。
しかし、実際にあった例ですが、延命措置を不要!と書いて周囲にも公言していた末期ガンの方が、急にご子息の「出来ちゃった結婚」を知って「孫の顔を見るまで生きたい」と言われたそうです。
その後、その方がどうなったかは存じ上げないのですが、私がその方の立場なら

「あぁ、死ぬってこういうことなのか。死にたくない。でも時間が無い」

と思ったかもしれません。

死ぬ間際になって自分というものが何者なのか、マザマザと知らされて後悔やら腹立たしいやら思う。それを「死」というのではないでしょうか。
死んだことはないですが…

そして

『今まで想像もしなかった想いにかられる』のを「遺族の悲しみ」というのではないでしょうか。
ご門徒さんの中には色々なご家庭があります。
中には100歳近いお婆ちゃんを亡くしたが、お婆ちゃんにとても可愛がられた所謂「おばあちゃん子」のお孫さんがあまりの悲しみで身も心も病んでしまった方がおられます。
長寿で亡くなられても遺族が悲しみから立ち直れないという話は決して少なくないのです。

また、嫁姑で諍いあっていたけれど、息を引き取る直前にお婆ちゃんがお嫁さんの手を取って優しく口づけをしてくれた。それで積年の恨みが解けたというお話もあります。

つまり、人の生死というのは「こうしたら、ああなる」などという因果律に縛られるものではないのです。
では「死を細分化」して死のタイプごとにお坊さんを派遣してみましょう。どうなるでしょうか。

僧侶「長寿を全うしたのはご縁です」→ 遺族「いや、そうでなくて故人の愛情の深さに今更気づいた自分が恥ずかしいのですけど」

僧侶「ご家族で色々と悩まれたようです。さるべき業縁の…」→遺族「いや、今、ご縁にメッチャ感謝してるんすけど」

上記のブログの筆者さんは

現実の葬儀に置いても、これは如実に現れています。一般的には若くして亡くなる方が、遺族の悲しみや生活への影響は深くなります。私は現代人は信仰心がなくなったことより、平均寿命が延びたことの方が、葬儀が簡略化される要因としては大きいと考えています。

と書かれていますが、「現実の葬儀」というのをどの程度ご経験されているのでしょう。
現実の葬儀というのは「一般的に」というのが通用しないのです。逆に言えば「一般的に」という型が通用してはならないのです。

私はお布施の明示に関して、ある一面では賛成です。現に本山も須弥壇収骨や永代経などについては明示してますし、当山の納骨堂は一体20万円以上と明示しています。そういう意味で「ある意味」賛成なのです。
しかし、お布施に関する全てを明示するべきではないと考えます。
明示したお布施が払えない場合はどうするのでしょう。値引きしますか。ローンにしますか。支払えない分は読経を手短にしますか。それとも聖職者なんだから捨身施己でどんな額でも同じことをせよ、と言いますか。しかし『支払う額は少なくても同じサービスを提供』とは消費社会の原理に反している気がしますし、何だかビジネスライクすぎますね。
何事も極端に方向転換すると無理が生じます。日本人の悪い癖です。ですから段階的に明示していくというのが現実としては妥当な線ではないかと思います。

 

 


コメント