最近、このような本を読みました。
『昭和史』平凡社ライブラリ
著 半藤一利
日本が支那事変からポツダム宣言受諾に至るまで、何故あのような歴史を辿ったのかをとてもリアルに且つ分かりやすい講義形式で語られています。
その中でとても印象的だったのが
『戦争を決定的に決めた真犯人・最大責任者の企みなどは無く、全て行き当たりばったりの、何とかなるさ思考で進めてしまった。ちょっとしたボタンの掛け違いの積み重ねが大きな事件を引き起こしているのです』
という一文でした。
例えば、真珠湾攻撃の直前に交渉の電信が打たれていたにも関わらず、人事でモメた外務省の職員が閣僚の足を引っ張ってやろうとモタモタしてた為にワンタッチの差で在米の大使館職員に届かなかったんだとか。もしその不服人事がなければ真珠湾攻撃は無かったのかとか…
話は変わりますが、お寺も普段の法務と生活の中で色々な出来事があります。
実は数日前、私が原因不明の高熱と悪寒でダウンし、インフルエンザかと思ったのですが、検査の結果は陰性でした。
しかしふと思ったのですが、これがもしインフルエンザなら熱が下がってから5日間は外出を控えなければいけません。
しかし、もしその間に葬儀が入ったらどうでしょう(今回はひとまず無かったのですが)。
「頑張って行きます」という話では無くなりますね。行けば菌をばら撒くのですから迷惑でしかない。しかし葬儀というのは待った無しです。そして手次の寺ということは、門徒さんが亡くなられた報せを受ければ、やはりすぐ駆けつけるものですよね。
お寺の都合が付かずに、代理のお寺を頼むというケースが少なからずあります。
どうしてもという場合に…
しかし、実際にあった話ですが、葬儀の時に代理のお寺さんが来た為に不信感を持ったという事がありました。
やはり門徒さんとしては普段色々してるんだから、葬儀の時は駆けつけて欲しいというのは当然の心理でしょう。
しかしこれが、今回の私のようにインフルエンザだったらどうでしょう。
方法は二つに一つ。
代理を頼むか、期間を空けるか、です。
往々にして、期間を空けるのはあまり好まれません。ご遺体をずーっと置きっ放しにするのですからご遺族にも負担があります。
では代理を頼むと、どうなるか。上記のような『お寺さんが…』となりはしないでしょうか。
話が飛びまくってますが、人間というのは少しのボタンの掛け違いが大きな出来事の中に一緒くたにされてしまう事がありはしないでしょうか。
葬儀を代理の人に頼むというのはかなりどうにもならない事情の場合です。
ゴルフの予定があるから行けない、などという分かりやすい生臭坊主は、少なくとも私の周りには見受けられません。
世に出回る、お寺と檀家さんのトラブルの全てではありませんが、結構な割合でこの『ちょっとしたボタンの掛け違い』が原因のような気がします。どちらが正しくてどちらが悪いとスパッと判別出来ないケースのほうが多い気がするのです。
まして、お寺さんが真面目であればあるほど、余計にドツボという事も…
最近雑誌やwebメディアに『僧侶は意識改革をせよ』みたいな見出しがよく見受けられます。
それは確かにその通りなのですが、今一度その情報の正確さとボタンの掛け違いを疑ってみてほしいのです。
バイラルメディアのコピーペーストしたような記事をツギハギして出来上がったパッチワーク論文の多い事多い事。
ボタンをかけ直せば案外物事はスムーズにいくものなのかもしれませんね。
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