「そういうお育て」

ひとりごと

久しぶりの更新です。

若手有志による真宗合同布教大会」というもののスタッフとして以前から関わらせて頂いてる中で、浄土真宗の他派の方とお話しする機会があります。

そんな中で以前話題に上がったのは

「何でお東(大谷派)さんはお念仏が出ないの?」

というものです。

これはお西(本願寺派)さんのとある発言が発端でした。

そういえば大谷派の研修会や法要ではあまり大きな声で念仏する光景はあまり見られないし、逆にお西(本願寺派)さんでは皆さんが大きな声で念仏されます。私自身も初めてお西(本願寺派)さんの聞法会館というところでの合同布教大会に参加させてもらった時にものすごくれたデカイ声で「なんまんだーぶ」と皆さんが念仏されるのに驚いた記憶があります。

大谷派は大谷派で、「憶念の念仏だ」とか「大きく言えばいいってもんじゃない。問いが大切だ」とか言う人もいるし、これは宗派同士で感覚の相違があるようです。

しかし、これは一言で言えば「そういうお育てを受けたから、そうしてる」というものなのかな?と私は思ってます。

例えが適切かどうかわかりませんが、この問題は土地柄の問題にも似てる気がします。

関西に行くと、ボケとかツッコむという概念があります。関西のテレビは日常的にお笑いが散りばめられてるし、普段の会話でもボケたりツッコんだりとテンポよく会話のキャッチボールがなされます。

一方で新潟の人はツッコむとかボケるという感覚が殆どありません。新潟で「ズバッ!」とかやって刀で切る振りをしても「??」という顔をされますから…

だけどこれはどちらが良いとか悪いとかの問題でなく、その環境で育ったからそうなってるだけで、どちらが正しいとか悪いとかではありません。

あまりにも自分の価値観と違うと「何で○○しないの?」と考えますが、それはしないからしない、というだけの事なのかもしれません。

私達は往々にして「自分が正しくて相手が間違ってる」と思いがちです。

それは「善と悪」の戦いではなく「善と善」の戦いです。宗教戦争なんてのもほとんどそのロジックですからね。

親鸞聖人の教えでは、まず自身がどうしようもない悪人であると自覚するところから始まります。

でもなかなかそれが難しい。それが出来たら仏になれるのかもしれません。生きている限り、我々は自覚の無い悪人なのですから…


コメント