↑とよく言われます。
お寺の仕事というのは普段、年配の方と接する事が多い職業です。
私は現在38歳ですが、周りの方からは『若いねぇ〜』とよく言われます。確かに自分の親より歳上の方々からすれば、私はどちらかというと息子とか孫に近い年齢。
しかし、小さな子供からすれば私は決して「若く」はありません。
息子の保育園の送り迎えの間に小さい子供さんと接する時に「お兄さんだよ〜」と言うのは何か気が引けて、だからといって「オジさんだよ〜」というのもシャクなような気が。
でも私が小さい頃は38の人なんて立派なオジさんでした。「お兄さん」というのはNHKの子供向けの番組に出てくる20代〜30そこそこの体操のお兄さんくらいです。
まぁ、見る人によって若いか老いかは変わりますよね。
そう言えば先日、こんな記事を読みました。
【伝統は残すもの?残るもの?】
HUFFPOST-社会-
保守する方や継ぐ者がいなくなることで、「伝統」が失われそうになった時、「伝統を守れ」との声が上がります。
しかし、なぜ「伝統」を守らないといけないのでしょうか。
私は「伝統を守るな」と言いたいわけではありません。
そうではなくて、「伝統だから守れ」という理由付けに違和感を覚えるんです。
とかえってくるでしょう。
思うに、伝統というのは「護ってきたから」伝統だという一面があると思います。
特に宗教などというものは、「それは、そうだからそうだ」という論理で成り立っています。
その論理は因果律で縛られるものではなく、「そうだから、信じる」が宗教だと。
お釈迦さまは誕生されるとすぐに東西南北に7歩ずつ歩き、天と地を指さして
『天上天下唯我独尊』
と言われました。そして甘露の雨が降り注いだと言われています。
「産まれた子供がそんなことするはずないじゃないか」
といえば、それはそこまでです。
現代の科学からすればそんなことはあり得ません。
しかし、宗教というのは先述の通り、「それはそうだからそうだ」なのです。
「お釈迦様が生まれた途端に~」といわれれば、それを信じる人が信者で、信じない人が信者でないだけです。
我々、お寺でも毎年4月8日に「花祭り」というのをやっています。
この花祭りでは甘茶(実際には甜茶)をミニチュアのお釈迦様の像にかけます。
これを「甘い露」だからといってシャンパンシャワーをお寺の本堂でやったらなんかおかしいです。
いや、おかしいと思わない人もいるんだろうな…
形を変えることで残ってきたものが伝統であるというのは同感です。
ただ、ここから先は変えちゃいけないよね、という「ボーダーライン」というか境界線はあってもいいんじゃないかと思うのです。
花祭りの例でいえば、お釈迦様の像が無ければ意味が違ってくるんです。
ハロウィンのルーツを探れば、
『ハロウィン、あるいは、ハロウィーン(英: Halloween または Hallowe’en[※ 1][※ 2])とは、毎年10月31日に行われる、古代ケルト人が起源と考えられている祭のこと。もともとは秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事であったが、現代では特にアメリカ合衆国で民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなっている。』
とあります。
だから、本来は「感謝と除災」の意味合いがあるわけですよね。
そこの本来の精神は、「ボーダーライン」なんじゃないかと思うわけです。
だけど、ハロウィンの仮装をされてる方のほとんどはそういう宗教行為というか意識はもっていないのかもしれません。
逆に言えば、そこの本質の精神が垣間見えるイベントであれば、大人が仮装しようが、パーティーしようが、何だっていいと思います。
そこの所を考えないで、
「渋谷の街でちゃんとゴミを拾う日本人の性質に外国人は感動」
とかワイドショーで言いますが、ゴミを出したら拾うのは当然のことであって、特記することでもなんでもありません。
むしろ、わざわざそんな事を言わなければいけないというのが残念というかなんというか。
経済効果があったとか無いとか、ゴミを拾ってるとかどうとか、本質の部分をすっぽかして論点がズレてるから
「今の若い人は」
と言われるんじゃないかなぁ。
そんな事を考えてる私の頭は石頭なのかもしれませんww
ではでは。
副住職 拝
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