田舎寺です。住職40年で、ここ五、六年の急変は驚きです(中略)。各地で地震が起き始めてから、老朽化した木造本堂の耐震を求められ、土台や柱を補強しました。また境内が寒いと言われ暖房機も増やし、足腰の悪い方が多いから、という求めの声で椅子を買い揃え、本堂の畳上に並べました。トイレも「しゃがんでするのは辛いから」という事で洋式に。階段や廊下にも手すりを多くつけました。最近は本堂も客間も椅子。お焼香も椅子。それだけ掃除のたび椅子を動かし大変。全て高齢化のせいですが、こちらも老齢夫婦だけです。(中略)
それもここ数年の急変。年取れば取るほど信心深く、賢くなるわけではありません。
[匿名・住職]
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これを読んで、あぁと思ったのはどこのお寺でも状況は同じだという事です。
椅子を入れたりトイレを回収すると「あぁよかった」「門徒の皆さんが喜んでくれた」となります。私も同じ状況ならそう思いますし、参詣される方に喜んでもらいたいのは住職や坊守始め、寺の人間の多くが思う所でしょう。
高齢がどうとかいうわけではなく、「環境を良くしよう」と思うのは人間であれば普通の感覚です。
しかし、私達が楽々と椅子に座り、暖かいストーブの横でホッコリしている間も、裸足で立ちっぱなしの方がおられる事に気づきませんでしょうか。
そう、阿弥陀さんは常に裸足で立ちっぱなしなのです。立ち上がってこちらに向かおうと常に働いておられます。
お寺の環境が良くなって喜ぶのは我々ですが、それは本当に阿弥陀さんの喜ぶところでしょうか。
勿論、地べたに正座しろ、という訳ではありません。
『仏法は毛穴で聴け』という言葉もあるくらいですから、座っていようが寝ていようが仏法は届いています。
しかし、本当の意味で阿弥陀さんが喜ぶ事って何でしょうか。
そう、それは「仏の言葉を聴く」ことであり、「我が名を喚べ」の声に従い、南無阿弥陀仏とお返事申し上げる事です。
つまり、本願を聴くという事ではないでしょうか。
正座なら正座のまんま、椅子なら椅子のまんま。形はどうでも良いのです。
ただ、楽をした時に「あぁ、勿体無いけど甘えます」という心がけを持てるかどうかなのです。
お寺の環境がどうなろうと、常に
『阿弥陀さんは喜んでくださるだろうか』
の思いを胸に秘めながら聴聞する事が大切なのではないでしょうか。
副住職 拝
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