神様と仏様

先日、年始のご挨拶とご門徒さんへの配り物が終わり、お正月の荘厳も片付けた夕暮れのことでした。
息子が『綿菓子が食べた〜い』と泣き叫んでいました。
どういう事かと妻に聞いてみると、近所の歳下のお友達と遊んでたところ、その近所の子が『これから綿菓子買いに行くの〜』と言ってた為、自分も欲しくなったんだとか。

どうやら、とある神社の初詣に縁日が出ており、そこに綿菓子があると。
どうしようかと考えあぐねた結果、綿菓子だけを買いに行く(他のものは買わないぞ!寄り道しないぞ!という約束をとりつけ)ことにしました。
すぐに行って帰ってこれるかと思いきや、もの凄い大渋滞。普段なら10分かからないところを40分くらいかけて到着しました。
綿菓子は神社の本殿入り口付近、駐車場内にあったので買ってすぐ帰ろうかと思ったのですが、やはりそこに神様がおられるのに素通りするのも失礼かと思い、本殿?に入り参拝してきました。
思えば、人生初の『初詣』でした。

というか神社の行事や催しというものには須らく行ったことがありません。

幼い頃に神社で縁日が出ていると聞き、『僕も行ってみたい』と言ったところ、両親祖父母からは『寺の息子が神社に行くなんて、何考えてるんだ。他にもお手伝いとか、やることやりなさい』と注意?された記憶があります。

『どうして神社に行っちゃいけないの?』と聞けば『そういうもんだ』との返答。幼心に疑問が消えませんでした。
浄土真宗では占いや加持祈祷は致しません。そういうものに惑わされずにしっかりと自分を見つめ、阿弥陀如来の本願にお任せするしかない、というのが根本の教えです。
そんな浄土真宗の僧侶、門徒は他の宗派の神様や仏様をどう考えれば良いのでしょうか。
親鸞聖人の和讃に
[かなしきかなや道俗の

良時吉日えらばしめ

天神地祇をあがめつつ

   卜占祭祀つとめとす]
というものがあります。

『我々は日の良し悪しや方角を気にしては、あっちの神様こっちの神様と迷っている。そのうちに儚い一生を虚しく終えてしまう。そんな姿を仏様は悲しみの眼差しで見ておられる』

というような意味になりましょうか。
確かに願掛けをしたり災難を祓うように願ったり。除災招福といわれるように、自分の都合の良いものだけを選び取って行くというのは浄土真宗の教えではありません。
しかし、それは『神社に行っちゃいけない』という事にはならないでしょう。
逆に考えれば、神社の氏子さんや神主さんがお寺の行事やイベントに来て本堂を素通りしていけば何とも寂しいというか良い気持ちはしないはず。
浄土真宗では神祇不拝という伝統がありますが、これは阿弥陀如来以外を本尊としないという意味で、決して神祇を軽しめているわけでもなく、神社に参ることを禁止しているわけでもありません。
彼方此方の神様や仏様はそれぞれに地域の人々から大切に護られてきたのだからそこは心静かに礼拝していくのは一つの礼儀と言えませんでしょうか。
[冥衆護持]ということばがあります。

浄土真宗ではお念仏を申し喜ぶ人は目に見えない菩薩や天神に護られる、という意味です。
我々の目には神様や仏様というのはよく見えません。しかし、神仏の側からは我々がよく見えている。仏様は全てお見通しなのです。
これは窓の簾に似ています。
夏などの暑い時に窓に簾をかけることってありますよね。

あの簾、中からは外がよく見えるが、外からは中の様子は伺えません。
これと同じく、我々には神仏というのはよく分からないし見えもしないのですが、神仏の側からは我々自身が丸見えになっている。

つまり全てお見通しなのですね。
我々の宗派の御本尊は阿弥陀如来です。
阿弥陀様は全てお見通しなのですから、どこまで行っても我々はお任せしていくしかないのですね。


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